DMBヒストリー
大日本木材防腐株式会社は、大正10(1921)年2月16日に創業し、令和3(2021)年で創立100周年を迎えました。
創業から100周年までの歩みと、そして現在までをご紹介します。
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年月 | 大日本木材防腐株式会社 及び子会社の変遷 | 月 | 世の中の出来事 |
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昭和2年 1927年 5月
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代表取締役に鈴木摠一郎就任 | 3月 | 金融恐慌始まる |
6月 | 名古屋市内営業所を材摠合資会社内に移転 | ||
昭和3年 1928年 2月
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資本金100万円から30万円に減資 | 1月 | 名古屋商業会議所が名古屋商工会議所に |
昭和4年 1929年 3月
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名古屋木材防腐(株)創立総会 | 10月 | 世界恐慌始まる |
4月 | 名古屋木材防腐(株)と事業契約 | ||
昭和5年 1930年 6月
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名古屋木材防腐(株)と合併承認(10月 合併) | 6月 | 世界恐慌が日本に波及 |
10月 | 資本金30万円から50万円に増資 | ||
昭和6年 1931年 4月
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工場改良(工場から堀川口駅の軌道新設)三笠印無灰炭製造釜改良、同倉庫建設 | 9月 | 満州事変始まる |
9月 | 株式・商品相場下落 | ||
昭和7年 1932年 -月
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強力殺虫剤ボニゾール、殺虫防臭デオシン販売開始(副産物事業) | 7月 | 明治銀行休業(昭和 13年廃業) |
10月 | 中川運河完成。「松重閘門」で堀川と接続 | ||
昭和8年 1933年 12月
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臨時大高製炭工場設置(知多郡大高町三叉に臨時工場)承認 | 3月 | 日本政府、国際連盟脱退 |
8月 | 材摠製作(株)設立 | ||
昭和9年 1934年 3月
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臨時大高製炭工場閉鎖 | 4月 -月 |
材摠木材(株)を設立し、材摠木材合資会社を合併(10月) 名古屋市が「百万都市」に |
昭和11年 1936年 1月
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笠寺工場増築工事着工(年末に完成) | 2月 10月 |
名古屋金鯱軍と東京巨人軍が鳴海球場で国内初のプロ野球試合 鈴木摠一郎が愛知化学工業(株)(現、アイカ工業(株))の取締役社長に就任 |
昭和13年 1938年 10月
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笠寺工場から笠寺骸炭工場と名称変更 | 4月 | 国家総動員法発布 |
昭和14年 1939年 -月
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製司コークスの製造開始 | 10月 | 大政翼賛会発足 |
7月 | 笠寺骸炭工場一部移転並びに拡張 | 10月 | 価格統制令公布 |
昭和15年 1940年 7月
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無灰石炭骸炭中間工業試験場建設 | 9月 | 日独伊三国同盟調印 |
昭和16年 1941年 3月
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無灰石炭骸炭製造に関する試験に対し商工大臣より補助金10万円交付 | 12月 | 太平洋戦争開戦 |
4月 | 資本金50万円から100万円に増資 | ||
昭和17年 1942年 3月
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商工省鉱産局長より無灰石炭骸炭製造の生産拡充を命ぜられる | 6月 | 産業設備営団、戦時標準型船の計画造船業務を遂行 |
6月 | 農林省指令により木材業を営む件許可 | 9月 | 名古屋木材(株)(名木社)の取締役社長に鈴木摠一郎就任(18.4退任) |
昭和18年 1943年 3月
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防腐工場は海軍監督工場に指定 | 6月 | 中学生以上の軍事教練と勤労奉仕を法制化 |
10月 | 高岡工場建設、 産業設備営団と契約 | ||
12月 | 資本金100万円から200万円に増資 | ||
昭和19年 1944年 5月
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笠寺骸炭工場が軍需省監督工場に指定 | 7月 | 集団学童疎開始まる |
7月 | 笠寺骸炭工場及び高岡工場が軍需省管理工場に指定 | 12月 | 東南海地震により被害甚大 |
10月 | 笠寺骸炭工場から笠寺工場に名称変更 | ||
昭和20年 1945年 -月
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空襲により防腐工場は操業中止。笠寺工場は残存施設で操業を継続 | 1月 | 三河地震発生 |
8月 | 笠寺工場無灰石炭製造設備を高岡へ疎開計画承認 | 8月 | ポツダム宣言の受諾により戦争の終結 |
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